急に寒くなった。
そろそろスーパーに、みかんが並び始める頃だろうか。
昔、実家から箱いっぱいのみかんが送られてきたことがあった。
みかんは好きだ。
けれど、一人暮らしには少し多すぎた。
最初は毎日のように食べた。
甘酸っぱくて、香りも好きで、指先が黄色くなるほど食べていた。
だが、どうだろうか。半分を過ぎたあたりで箱の底のほうのみかんが腐り始めた。
一つ腐ると、二つ三つと、あっという間に痛んでいった。
その後、昔のドラマで「腐ったみかん」と表現されているのを知った。
海外では「腐ったりんご」だそうだ。朱に交われば赤くなる、つまり、周りの環境に染まっていくという、そういう話だ。
最近、自民党と公明党の連立が解消された。
そして、自民党は維新と手を組んだ。
SNSを眺めていると、どちらかといえば肯定的な声が多いように思う。
それは公明党の宗教的な繋がりの拒絶反応、宗教アレルギーのような感情もあるのかもしれない。創価学会に対する警戒心、あるいは政治と宗教の距離への違和感。
けれど、考えてみれば、自民党にも統一教会と関係のあった議員は少なくない。
そこだけを理由に「新しい組み合わせ」を肯定するのは、やや都合が良すぎる気もする。
それでも、世間の多くは「少しでもマシなみかん」を選ぼうとしているように見える。
完全に腐ってはいないものを拾い上げて、「ほら、これなら食べられる」と言い聞かせるように。
箱全体が痛んでいることを知りながら、
「腐ったみかんだけを取り除けば、まだいける」と思ってしまう。
でも、私は思う。
腐ったみかんを元に戻すことはできない、と。
同じ箱の中で、同じ淀んだ空気の中で、新しいみかんを足しても、いずれまた同じように腐っていく。
それでも、私たちは箱を捨てようとしない。
「この箱しかない」と思い込んでいるからだろうか。
新しい箱を買うには、手間もお金も、なにより勇気がいる。
だから今日も、「こっちのみかんならまだ食えるか?」と自分に問いながら、箱の中へ手を伸ばす。
またいつもの冬がやってくる。
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