「デモは馬鹿の集まり?」そう思った人こそ見てほしい話

政治

1.導入

掲示板で、こんな書き込みを見かけた。

「デモって馬鹿が扇動されてるだけにしか思えん」

ネットではありふれた言葉かもしれない。
だが私は、この発言を見て「的外れだ」と感じた。

なぜなら「扇動されること」と「社会が動くこと」は別の話だからだ。
仮に扇動されていたとしても、行動が可視化され、圧力となり、制度や権力に影響を与えるなら意味があるだろう。

それを「馬鹿だから」と切り捨てるのは、現象の力学をまったく見ていない。
むしろ「人はなぜ扇動されるのか」「デモは何を意味するのか」を考えるほうが、本質に近いのではないだろうか。


2.「扇動=悪」という思い込み

「扇動」という言葉には、悪い響きがつきまとっている。
人を騙し、操作し、無理やり行動させる。そんなイメージが刷り込まれているのだろう。
だが、実際には扇動はもっと広い領域に存在している。

広告も隠れた扇動である。
テレビのCMは、人々の購買欲を煽り、財布を開かせる仕組みだ。
政治家の演説もまた扇動だ。支持を集めるために感情を刺激し、人を立ち上がらせる。
企業のキャンペーン、宗教の布教、芸術作品に触れて涙を流し、映画を見て趣味にチャレンジすることさえ、広義の扇動に含められるかもしれない。

もし「扇動=悪」と断じるなら、私たちの日常はすでに「悪」で満ちていることになる。
そうではなく、扇動は「人を動かす装置」なのだ。
問題はその目的や結果であって、扇動そのものに善悪はない。

歴史を振り返ってみれば、そのことはより明らかになる。
アメリカの公民権運動。
ベトナム反戦運動。
日本の安保闘争。
どれも群衆が「感情に揺さぶられ」動いた結果、社会を変える圧力となった。
つまり、扇動の有無よりも「それが社会を動かしたかどうか」が本質なのだ。


3.デモと暗殺

デモと暗殺は、いずれも社会を揺さぶる力を持つ。
だが、その性質はまったく異なる。

デモは、数の力で社会に圧力をかける行為だ。
街頭に集まる人々の姿は、可視化された「不満の総量」として権力に突きつけられる。
それは正統な民主的表現とみなされる一方で、成果が出るまでには時間がかかる。
数年単位での積み重ねが必要になることもある。

一方、暗殺は即効性を持つ。
たった一人の行為が、数年かけても動かなかった、いやそれどころか今後も動かなかったであろう山を、社会のタブーを、一瞬にして崩すことすらある。
しかし、それは同時に「社会が自ら解決できなかったことの露呈」でもある。
もし制度や対話がきちんと機能していたなら、暗殺が社会を揺るがす余地などなかったはずだ。
だからこそ、暗殺が衝撃を与えてしまう現実は、民主主義の未熟さや制度の硬直を突きつけている。

その典型が、統一教会問題だ。
長年にわたり被害が訴えられ、告発があったにも関わらず、政治と宗教の結びつきによってほとんど動かなかった。
だが、安倍晋三元首相の暗殺という衝撃は、一気に社会意識を変えた。
メディアは連日報じ、国会でも追及が進み、最終的には東京地方裁判所が統一教会に解散命令を出すに至った。

倫理的に見れば、デモは正統であり、暗殺は不当だ。
しかし力学的に見れば、両者は「どれだけ速く、どれだけ強く社会を動かせるか」という違いにすぎない。
出発点が扇動であろうと、個人の恨みであろうと、社会に揺さぶりをかけられるかどうかが本質なのだ。


4.倫理の皮をかぶった獣としての人間

人間は理性的な存在だと言われる。
しかし実際には、理性は本能や欲望の上にかぶせられた薄い皮にすぎないのかもしれない。

社会の秩序を守るために「倫理」という皮が必要とされた。
それがあるから人は殺し合わず、協力し、ルールの中で生きることができる。
だが、その皮は状況次第でいとも簡単に剥がれる。

ある一定のラインまでは、人は倫理の言葉を使い、対話で解決しようとする。
しかしそのラインを超えると、獣としての衝動が顔を出す。
怒り、恨み、絶望…それらが倫理を突き破り、暴力や破壊へと人を駆り立てる。

デモはその境界線上にある行為だ。
まだルールの枠組みに従ってはいるが、そこには牙を見せる前の気配がある。
一方で暗殺は、すでに皮を突き破ってしまった行為だ。
倫理的には非難されるべきであっても、力学的には社会に大きな衝撃を与える。

人間は、倫理を掲げながらも獣性を隠しきれない存在だ。
そしてその矛盾こそが、社会を揺さぶる力の根源にあるのだろう。


5.飯と尊厳

人間を縛っているのは、倫理の皮だけではない。
そのさらに根本に「飯」と「尊厳」という二つの首輪がある。

「尊厳が無くとも飯が食えれば人は生きられる。
飯が無くとも尊厳があれば人は耐えられる。
だが両方なくなると、もはやどうでもよくなる。」

──平野耕太『ドリフターズ』に登場する織田信長の台詞だ。
漫画の言葉ではあるが、人間の本質を突いた一節だと思う。

飯は、生きるための物質的基盤である。
衣食住が保障されていれば、人は多少の屈辱にも耐えられる。
逆に、尊厳は精神的基盤だ。
誇りや役割があれば、空腹や困難すら意味を持つ。

しかし、飯と尊厳の両方が失われたとき、人は「どうでもよくなる」。
その状態では、倫理の皮は機能しない。
暴動や破壊、無関心や自暴自棄の衝動が剥き出しになるのはその瞬間だ。

つまり、デモや暴動が生まれる背景には、必ず「飯」と「尊厳」の揺らぎがある。
失業によって生活基盤を失った人々。過労や孤独死が日常のニュースとなった社会。
非正規雇用で働きながらも「自分は社会に必要とされていない」と感じさせられる人々。
そうした現実は、飯と尊厳の両方を同時に削っていく。
その境遇に追い込まれたとき、人はもはや「どうでもよくなる」。
倫理の皮が剥がれ、獣としての衝動が表に出てしまう。
デモは、その一歩手前で鳴らされる警鐘なのだ。


6.まとめ:デモを馬鹿と切り捨てる浅さ

「デモは馬鹿が扇動されているだけ」という言葉は、一見もっともらしく聞こえる。
わたしもそうお高く思っていたこともあった。
だが、その言葉は社会の力学を何も見ていない。

扇動は人を動かす装置にすぎない。
善悪はその目的と結果によって後から貼られる。
そして、デモであれ暗殺であれ、本質は「社会を揺さぶり、変化を起こすことができるか」にある。

デモは、獣が牙をむく前の声だ。
人々が倫理の皮をまといながらも、その内側で膨らむ不満を可視化する行為である。
それを「馬鹿」と切り捨てることは、社会が発する危険信号を見逃すことにほかならない。

飯と尊厳のどちらかが削られても人は耐えられる。
だが、両方が同時に奪われたとき、人は皮を破り、獣として現れる。
デモは、その境界線上で鳴り響く警鐘なのだ。

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