きっかけは、ある一枚の写真だった
春のある日、だらだらとベッドに寝転がって眺めていたSNSで流れてきた一枚の写真だった。
桜の下で、笑顔の親子の写真。
「お子さんの顔可愛くないですね。」
わたしは、ぞっとした。
さらに、その親はこう返す。
「これって開始請求案件になりますか?」
このやりとりは、たった数行なのに、多くのものが物語っていた。
ふと、わたしの周囲でも似たような話題が出ていたことを思い出した。
ちょうど今の時期、入学式や卒業式を迎えた親子が、SNSに記念写真をアップする。
そこには少し派手めな服装や、気取ったポーズの写真も混ざっている。
そして、ある程度予想できる形で「批判の言葉」が寄せられる。
だから、考えたくなったのだ。
なぜ、人はこういった写真を上げるのか。
なぜ、わざわざ批判をするのか。
なぜ、親はそんな写真を上げるのか?
「自分と子どもの顔を公開する」行為は、ある種のプライバシーの放棄とも言える。
だが多くの親は、それを”リスク”とは思っていない。
むしろ「かわいいね」と言ってもらえることを期待している。
では、その心には何があるのか。
親たちの行動の背景を、いくつかのパターンで見てみたい。
自己承認欲求の代理的表現
子供=自身の代弁者/拡声器
- 自分の価値を、子どもの「かわいさ」「成長」によって間接的に評価してもらいたい
- 「可愛いね」「似てるね」と言われることで、親自身が承認される感覚を得る
- 自分がうまく評価されなかった経験が、子どもへの期待に転化される
「映え文化」の一環
ある種のフォトジェニック消費
- SNSは「いいねの数=正解」という構造になっている
- 桜・子ども・笑顔という“幸福テンプレート”で“映える構図”を狙う
- 日常を記録するのではなく、「写真にするための日常」を演出する傾向がある
- 投稿は自己表現というより、“評価装置への入力”になっている
アルバム兼日記感覚
悪意のなさ&認識の甘さ
- 顔を出すことのリスクを深く理解していない
- 「うちの子を見てほしい」=善意の表現と誤認している
- その写真が「見世物化」「嘲笑対象」になると想像してない、想像力の欠如
幸せの自己顕示欲
「いいね」の数=抗不安薬
- 家族写真や成長記録を通じて、“人生がうまくいっていること”の証明をしたい
- 幸せそうな構図を投稿することで、自分の生活を肯定したくなる
- 不安や虚無感が、「いいね」やコメントによって一時的に埋まる
子どもとの心理的境界が曖昧
子供=自身の社会的アバター
- 子どもと自分を切り離して考えられない
- SNSで子どもを出すことが、自分自身を出すことと同義になっている
- 批判されると、“子ども”ではなく“自分”が傷つけられたと感じる
- 称賛はうれしく、批判は直接的に傷つく
なぜ、人は批判するのか?
「可愛くない」という発言は、価値判断を伴う外見批判だ。
ただ、子供に向けたものである以上、「子供の名誉棄損」「侮辱罪」「いじめの助長」などのラインに触れる可能性がある。
劣等感の裏返し
他人の“承認”に、無意識に苛立つ
- 他人の“幸せアピール”に、嫉妬や不満を感じてしまう
- 「この家庭はうまくいっているように見える」という映像が、自分の未達成を突きつけてくる
- その投稿に“傷を入れる”ことで、自分の位置を相対的に上げようとする
倫理・マナーという正義マン
“正しさ”を武器に、自分の居場所を作る
- 自分の感情や価値観に自身がなく、「顔を出すのは間違ってる」「子どもが可哀想」といういかにもな“正論”を持ち出し、自らを正義化し、正当化する
SNSという仮面
弱者=攻撃
- 匿名性と拡散性により「言ってはいけないこと」へのハードルが下がる
- 普段の鬱憤やストレスが、無防備な対象に向けられやすくなる
比較されてきた人生
「比べられてきた」から他人も無意識に比べてしまう
- 家庭や学校、職場などで「誰かと比べられること」が当たり前だった
- 他人の子どもも、「自分より上か下か」で測ってしまう思考に慣れている
- 「可愛くない」という発言は、相対化しないと安心できない心理の表れ
評価されなかった人生
聞いてもらえなかった言葉が、歪んだ形で漏れ出る
- 承認されなかった感情、表現されなかった自己、それが蓄積している
- 誰かの投稿に反応することで、ようやく「自分を語る場所」を得られたように感じる
- だから、“他人の承認”を得ている人に苛立ちや羨望を感じる
批判者の背後にあるものとは?
こういった、攻撃者にもさまざまな背景があるのではないだろうか。
評価されなかったこと、学生時代や職場、そして現状。誰にも聞いてもらえなかった孤独。
彼らは相手が弱者で言いやすい状況だから批判する。
だから、その攻撃は本人の人生の裏返しのようにも思えてくる。
まとめ:その構図は誰のせい?
SNSに写真を出すことは、別に悪ではないし、否定もしないし、好きにしてくれって感じだ。
善意の人間もいるし、記念に残したい、身内で盛り上がりたいという人もいる。
でも、その写真が、誰かの”攻撃のマト”になる可能性があることは想像に難くない。
一方で、わざわざ批判の言葉を投げる人間もいる。
彼らが純粋な悪人だとは限らない。
自分の過去、承認されなかった気持ち、否定されてきた感情。
そうしたものが、歪な形で存在してしまっている。
幼児が道路で遊んでいて、車に轢かれたら誰の責任だろうか?
批判をした人間も悪い。
が、「そもそも、そこに幼児を置いたのは誰なのか?」という問いを無視してはいけない。
親の手を離れた写真は、幸せなそうな親子という無言の存在に勝手に意味をつけ、見る側の人生を反映して好き勝手に解釈されてる。
リスクがある中で、誰が責任主体であるべきなのか、そしてその責任を”当事者たちが自覚していない状態”こそが危ういのではないだろうか。
守れる大人が守らないまま、”いいね”の数に期待して投稿する社会はどこか歪んでいる。
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