理性は本能のPR部門である

思考メモ

生物であることから逃げた気になっている人類へ


人間って自分のことを頭いいって思ってたりする。
ちゃんと並んでエレベーターを待てるし、トイレにも順番で入る。
原始人のように石と木で殴り合う代わりに、SNSで文字で悪口を言い合うぐらいには進化している。
では、こうは言えないだろうか?

理性は、本能の「広告代理店」だ

欲しい、選ばれたい、所有したい、勝ちたい。
そんなむき出しの「欲」を、理性という名の代理店が、せっせとプロモーションをパワポにまとめている。


「これは環境のためなんです」:それは承認欲か?“良い人でいたい”という評価欲か?

「これは弱者のためなんです」:それは庇護欲か?もしくは支配欲?

「これは愛です」:でも同時に独占欲でもある。

「これは正義です」:誰の?何のために?それは本当に”悪”なのか?それとも攻撃欲なのか?


言葉で綺麗に取りつくろうほど、その裏にある本能の顔は見えにくくなる。
だから人は、PRされた言葉にすがる。
そして、自分自身の欲を、まるで”使命”かのように誤認する。

じゃあ、試してみればいい。
もっと根源的な欲求にまで自分を落とすのだ。

一日断食してみよう。
本当に理性的な使命で動いているのなら、空腹の中でも”正義”が唱えられるはずだ。

一日徹夜してみよう。
眠気に襲われても、あなたの”社会的意識”は崩れないはずだ。

もしその状態でも理念を貫けたなら―――
おめでとう、あなたは遂に、人間の仮面を脱いだ、本物の理性かもしれない。

でも、おそらく、そんなときに口から出るのは「腹が減った」だとか「眠い」だ。
それが本能であり、それが”あなた”なのだ。

 

おわりに:

理性を否定はしない。
それは世界と折り合いをつけるための道具だからだ。
でも、それが誰のために喋っているのかを疑ってみてもいい。

そして、その言葉がどこから来たのか。
どんな欲望から始まり、どんな不安をなだめ、どんな傷を隠すために生まれたのか。
それに気づいたとき、理性は少しだけ透明になる。

そして、そのうちのいくつが―――ただのPRだったのだろうか?

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